この日々はどちらの仲間か

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イチョウが色づいてきた。

落ちたばかりの葉は、しなやかで柔らかい。
みごとな黄色い絨毯の上で、小さな子どもたちが喜んでいた。
あぁ、それから犬も。

落ちてしばらくと経つ葉をふんづけた。
カサカサと堅くなって、砕けやすい。

 

老子の言葉にこんなのがあった。

人も、草木もみな、生きている時はしなやかで柔らかで、
死ぬと、こわばってしぼんでゆくと。
だから、堅くこわばったものは死の仲間で、
柔らかでみずみずしく、
繊細で弱々しいものは生の仲間なのだと。

ならば、わたしたちの毎日はどうかと考えた。
わたしたちの社会は、暮らしは、
こころはどうか、と考えた。

結局は何もかもが混在して成り立っている。
過ぎたるものが目につくのは、決して近年に限った話ではないだろう。
いつの世もきっとある意味で等しく、
それぞれの時代の性質を社会は如実に物語っているだけに過ぎないのではないか。

陰極まった成れの果て・・などと、
ベクトルは一方方向でおさまらないから面白い。
真に極まればこそ、やはり転じて陽と成すのであろうと思う。

さらに面白いのは、
その逆、陽極まればも然りということだ。

 

やはり過ぎたる何かの先に、
その反対に思えるものが存在している。

堅くこわばるものと、柔らかくしなやかなものとは、
互いに互いを在らせている存在のようだろう。

今日はこの身体の細胞たちの幾つが死に、
幾つが生まれ変わっていったのだろうか。
死に始まり生へと辿り着く、
その廻りを、慈しめるようでありたい。

 

秋が終わってゆく姿と、
冬が始まってゆく姿を、
だいじに見ていようと思う。

2016-11-06 | Posted in ブログ, 日毎フォトNo Comments » 

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